錦鯉販売・らんちゅう販売専門店 / カトウ養魚場

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らんちゅうと共に


「らんちゅう」との出会い
 昭和30年代の初め頃、駅前の商店街の一角で商売をしていた私は、金魚の飼育を楽しんでいました。金魚仲間の藤野氏から、金魚の王様と言われる「らんちゅう」の話を聞き、早速近所の金魚屋さんで取り寄せてもらい大事に育てのですが、写真や絵で見た「らんちゅう」と違い、頭のコブが出ませんでした。
 昭和35年頃に、本屋さんで「らんちゅう」の本を探し、お名前が載っていた名古屋の長谷川先生にお願いし、稚魚を分けて頂ける事になり、早速お邪魔しました。ご自身の青子は選別をしたばかりで数が少なく、お弟子さんになる愛好家の方をご紹介くださり、奥様がわざわざ車で連れて行ってくださいました。蛇足ですが、その時の車は大きな外車で、初めて外車に乗せて頂いたのを憶えています。ご紹介頂いた方に無理をお願いし、たたき池1面に入っていた60〜70尾の青子を分けて頂く事ができました。その時に、長谷川先生から「らんちゅう」の飼育方法を、餌のミジンコの事から始まりいろいろと教えて頂きました。
 持ち帰った青子は、藤野氏と半分ずつ分けて、私の本格的な「らんちゅう」飼育が始まった次第です。

福井県愛鱗会と橋本先生
 駅前商店街の一角にあった店(婦人服地の卸販売)の軒下で、洗濯用の金ダライを利用して「らんちゅう」の飼育を始め、翌年には本を参考にして、木の枠にポリエチレンのシートを張った池を1面作りました。今思うと、あのような条件で、よく「らんちゅう」を飼育できたものだと思います。
 「らんちゅう」の飼育を始めてすぐに、近くの医院で院長をされていた武内先生が尋ねてこられ、「らんちゅう」の愛好会を作るが入会しないかと誘われ、早速入会させて頂きました。こうして、30数名が集まり、武内先生を会長に福井県愛鱗会が発足し、私も副会長としてお手伝いさせて頂くことになりました。
 昭和37年の秋には、京都金鱗会から橋本先生をはじめ4〜5名の審査員をお招きして、福井県愛鱗会の第1回品評会が開催され、名古屋で分けて頂いた青子から育てた、私の「らんちゅう」が優等賞に選ばれ福井県県知事賞を頂戴しました。
 この時、橋本先生が審査に来られたのがご縁で、シーズンには毎週のように橋本先生のお宅にお邪魔して、見方・育て方・選別の方法など「らんちゅう」を詳しく教えて頂きました。橋本先生は、ご自身の魚を掬い上げて手にとり、背形や尾形などの基本から親切丁寧にご指導くださったばかりでなく、青子や親魚も分けてくださいました。分けて頂いた親魚で子取りを始めましたが、子供は自分で育てるほかに、武内先生が子取りした青子と併せて愛鱗会の配給魚として会員の皆様にお分けしていました。
 子取りの時期にはミジンコを取りに、青子の時期には赤虫やイトメを取りにと忙しい毎日でしたが、順調に育っていく「らんちゅう」を見るのが楽しみでした。今と違い、冷凍などできませんでしたから、ミジンコは毎日、赤虫やイトメは2日から3日おきに取りに行かないといけないので、餌取りは日課のようなものでした。その頃には郊外に出ると田んぼや小川がいっぱいありましたが、バスで1時間くらいかかる大野市までも足を伸ばして、餌を取りに出かけることもありました。今では笑い話ですが、1度などは、蓋がしてあったのに餌が入ったバケツがバスの中でひっくり返ってしまい、恥ずかしいやら格好が悪いやらで、大慌てしたこともありました。
(・・・私が小さかった頃、父が駅前の店でらんちゅうを飼育していた時は、木の枠にポリエチレンシートを張った小さな池を1個軒下に置き、店の前に洗濯用の金ダライやポリダライを並べ、垂木を挟んでタライを3段位に積み重ねて育てていて、タライは夜になると一々店の中へ運び入れていました。小学校の低学年の頃は、らんちゅうを小学校へ持って行き、教室の水槽で飼っていたこともあります。・・・息記)

宇野先生との出会いと、当店の基礎となる「らんちゅう」
 昭和39年秋の福井県愛鱗会の第3回品評会から、橋本先生と一緒に、宇野先生が審査員として福井へ来てくださるようになり、名古屋で分けて頂いて、親魚にと育てていた「らんちゅう」を見て頂いたのですが、「しっかり飼い込んであり作りも良い。」との評価を頂いたものの、残念ながら、そのらんちゅうは尾型(尾肩の字を使うことが多いですが、尾の形全般と言う意味でこの字を使いたいと思います。)が悪く、親には向かないとアドバイスを頂きました。
 それでは、親に向く「らんちゅう」を分けて頂けませんかとお願いしたところ、京都の桜井先生をご紹介くださり、日にちを指定されて、お邪魔するように言われました。指定された日に桜井先生のお宅に伺うと、宇野先生もいらっしゃっていて、宇野先生が自らたたき池の蓋をめくり、慎重にオス・メスを1尾ずつ選んで洗面器に掬い上げて、「これで子を取ってみてください。」と言われました。代金は結構ですと受け取って頂けず、大変恐縮しながらその「らんちゅう」2尾を大事に持ち帰りました。
 当時、宇野先生は関東から尾島系統の「らんちゅう」を厳選して京都に持ち帰られていて、桜井先生も宇野先生のアドバイスを受けながら、尾島系統の素晴らしい「らんちゅう」を数多く作られていました。こうして宇野先生が選んでくださった尾島系統の「らんちゅう」が、私の基本の系統の一つとなりました。
 桜井先生が育てられていた尾島系統の「らんちゅう」は、特に尾形が素晴らしく、尾肩や張りが十分あるのに泳ぎがスムーズで尾のさばきが良く、止まるとまた尾がパッと開く様が見事で、今でも強く印象に残っていて、私がらんちゅうを作る上での目標の一つになっています。
 宇野先生が選んでくださった尾島系統の親魚で、昭和40年春に子取りをした中から素晴らしい「らんちゅう」ができ、福井県愛鱗会の品評会で優勝し、始めて参加させて頂いた京都金鱗会の品評会では2席に入賞しました。
 宇野先生は、この「らんちゅう」を高く評価してくださり、全国でも優勝を争う魚なので、是非全国品評会へ出品するようにと薦められました。その年の日本らんちう協会の全国品評会の会場は東京で、前日から出かけなければならず、石川宗家さんの池で一晩預かって貰えるように話をしてあげるからとまでおっしゃってくださいましたが、どうしても都合が付かず参加できませんでした。この時の「らんちゅう」が、翌昭和41年秋の日本らんちう協会の全国品評会で2歳魚西大関を受賞した「福栄冠」です。
 この「福栄冠」はオスで、昭和41年春に橋本先生の系統の魚に、「福栄冠」とその兄弟をかけて子取りをした中から、同じく昭和41年秋に日本らんちう協会全国品評会当歳魚東大関を受賞した「越前」が生まれました。「越前」が生まれた年の子は、良い子が多く粒揃いだったのを覚えています。その多くを、欲しいと言われる方に差し上げてしまいましたが、私の見る目がもっとあって、もっと上手に選別できれば、更に良い「らんちゅう」が数多く残っていたかも知れません。
「福栄冠」までは、福井駅前で店の前に置いた木の枠の池とタライで「らんちゅう」を育てていましたが、昭和41年春には、新田塚の現在の店の近くに土地を確保することができ、木の枠にポリエチレンシートを張った池を手作りし、10面ほど並べて「らんちゅう」飼育を始めました。これで多くの子取りをできるようになりましたが、当時住んでいた福井駅前の店から新田塚の池までは車で15分ほどかかり、毎日早朝から「らんちゅう」の世話をしに行くのが日課でした。
 このような中で生まれた「越前」はメスでしたので、子取りをしたすべてを愛鱗会の配給魚として会員の方に分けてしまったところ、橋本先生に「良い子が生まれる系統をもっと大事にしないといけない。」と、きついお叱りを受けたこともありました。
 この後も、2年程は日本らんちう協会の全国品評会へ出品し、前頭や小結などを受賞しましたが、これらの「らんちゅう」は宇野先生のお目に留まり、お買い上げ頂く事ができました。私の作った「らんちゅう」を宇野先生にお買い上げ頂けた事は、私の励みにもなり自信にもなりました。
 宇野先生に審査に来て頂くようになってからは、先生のお宅にも毎年数回ずつはお伺いし、「らんちゅう」の見方や、味わいなどの奥深さを教えて頂きました。当時宇野先生は、面被りの「らんちゅう」の固定に取り組まれていて、その魚は頭と各鰭だけが赤くて、体は真っ白で、それはきれいなものでした。
 宇野先生は、私の「らんちゅう」への思いを評価してくださっていたのか、何でも教えてくださいましたし、「らんちゅう」も数多く分けてくださいました。それも親魚や、選別して色変わりをするまで残してあった中から更に選んでくださった上に、お願いしても代金は受け取ってはくださいませんでした。
 しかし、宇野先生に頂いた親魚同士で子取りをすると、背形の良い魚が少なく、帆柱も多く出て、当歳の時には尾の張りの弱い魚が多く、魚もあまり大きくならず、数千尾の中から秋に残るのは十数尾くらいでした。宇野先生も「私の魚では、品評会には向きませんよ。」とおっしゃっていましたが、若かった私は品評会用の魚を目標に、少しでも大きく、太く育てたいと思っていましたので、宇野先生の親魚同士では子取りをあまりせず、宇野先生の系統の長所が出るように、他の系統の魚と交配して子取りをしていました。私共の「らんちゅう」には宇野先生直系の血が入っているのですが、宇野先生の純粋系統をもっと大切にしておけば良かったと思います。

 現在は、近親交配により血が濃くなりすぎる弊害を避けるために、宇野先生のもとで一緒にらんちゅうを教えて頂き親交のある方から、宇野先生直系の新しい親魚や親魚候補の魚を導入しています。

(・・・私も小学生だった頃、父に連れられて宇野先生のお宅に何度か伺いました。その時の、宇野先生と父の話の内容は覚えていませんが、幾つか印象的に覚えていることがあります。
 一つ目は、手入れされた庭に、多くのコンクリート製のたたきが整然と並び、その一つ一つの底に白い皿が埋め込まれていて、宇野先生は、餌のペレットを水中でしばらく握ったままいて、水を吸い込ませてから、散らばらないように、そっと皿に入れていらっしゃいました。今思うと、数多くのらんちゅうを飼育されていて、日頃の管理に大変な手間と時間がかかる中で、一池ずつ時間をかけて餌を与えられていたのは、それだけらんちゅうを大切にされていた証だったと思います。
 二つ目は、宇野先生が育てられていた、面被りらんちゅうの美しさです。頭全体が赤いか、頭の上部だけが丹頂のように赤く、体には全く赤が入らずに真っ白で、各鰭が先端まで真っ赤で、驚くほどきれいでした。父が生産しているらんちゅうにも、宇野先生の系統の魚がいるので、面被りのらんちゅうが何尾か出ますが、子供の頃はそのようならんちゅうを見たことがなく、印象は強烈でした。・・・息記)

続く




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